さて久々に

 更新が途絶えて3年経過した中で,時折ブクマが増えているのは知っていたのだが(メールで知らせが来る),昨日コメントを頂いた.ブログとはいえ何かしらアウトプットしておくと,それが何か役に立つことがあるんだなあというのが面白い.
 この3年間で凹んだり,楽しいことがあったり,研究が全くできなくなったり,環境を変えてみたり,逃避してみたり,と紆余曲折ありましたが,何とか研究者として生きる生活に戻ってきました.3年前とは全く考え方も立ち位置も変わりましたね.
 考えたこと・感じたことをまたアウトプットしてみようかなと思いました.久々なので今日はこんなところで.

5ヶ月経っての自分語り

 更新が途切れてから半年くらい経とうとしてたんですね.前回のエントリ内容で立ち直ったように見えつつ,スランプから完全に脱出できずにgdgdな半年を送ってました.当初予定していた論文執筆計画は崩れ,最低限の論文投稿だけは済ませました.

立ち止まることって怖いよね
 今までの人生,自分なりには山あり谷ありのつもりなんだけど,人から見ると順風に見えるようです.客観的に見れば確かにそうなのかもね.浪人もしなかったし,どの段階もストレートで進んだし,Ph.D取得後もどうにか食べいける生活を送れてるし.

 でも,そういった生活が普通になってきてたから,立ち止まること・失敗することを妙に恐れるようになっていた気がします.というか立ち止まり方,そして立ち止まったところからのアクセルの踏みなおし方がわかってないんですよね.経験無しに学ぶことは難しく,自分の中でやり方が確立されてなかった.

 そんなわけで,今年に入ってからの半年間くらいのスランプは,私にとっては貴重な時間でした.もちろん雇われ先のプロジェクトのボスと先輩にはかなり迷惑をかけてしまったわけで,そこは償っていかないといかんわけですが.でも,迷惑をかけたおかげで自分の人生観が少し変わったような気がします.

 アクセルを踏み続けなくても良いんだ.もっと人を頼ってもいいんだ.つらいときには立ち止まってみても良いんだ.立ち止まってもまた走りなおせるんだ.書いていくと恥ずかしい内容ばかりですが,そんなことに気づけた半年だったようです.

 まだ上手い速度調整は身につけてないけど,止まり方くらいは覚えられたかな.

人生の目標を見定め直す
 前回のエントリを改めて読み直したけど恥ずかしい.だいぶスランプに陥ってたんですな.目標というか完全に自分を見失ってるね.悪いスパイラルに嵌っていたようです.

 「研究者になりたい」という目標は変わってないです.「大先生になりたい!」「歴史に名を刻みたい!」「ノーベル賞とりたい!」など大目標を掲げてみるのも面白いけど,今の自分の目標は「研究者として生きながら,研究者として人生を目一杯楽しみたい」ですかね.妙に漠然としてるけど,異様にしっくりきます.

 形のある目標も大切にしたいけど,無形の前向きな目標が自分にあってるような気がしました.

環境の変化
 こんなエントリを書けるようになったのも,実は今月に大きな環境の変化があったことが一因です.かねてから海外で研究してみたいなあと思っていましたが,色々な縁があって実現に至りました.海外でのポスドク生活が始まりまして,今はアメリカにいます.この環境の変化を利用して心機一転,研究にのめりこむ生活を復活させようと思います.

今後,このブログをどうして行くのか?
 やはり考えたことをアウトプットしていくのも楽しいですよね.こちらでも月に2-4回程度はアウトプットも続けていければなあと思っています.研究に関することが多くなるとは思いますが,日本との文化の違いを認識しながら,『考えること』『教えること』について思うことを吐き出そうかな.



 というわけで生存報告でした.

スランプに陥った話

 この記事は完全に自分語りです.そういうのが嫌いな人は気分を害するはずので読まない方が良いと思います.公開しといてなんだっつう話ですが,一応,先に明言しておきます.この記事は,飽くまでも自分のためのアウトプットです.

スランプ
 2-3月は研究の進みが悪かった.精神的なスランプに陥った.何をやろうにもやる気が出てこない.何をするにも先ばかりが気になって手元の研究に手がつかない.やりたいこと・やるべきこと・やらなければならないことが多すぎて,自分で優先順位をつけられない状況が続いた.毎週リストを作り変えては,代り映えのしないリスト項目にゲンナリする毎日.〆切が迫って本当にやらなければならないことはやったけど,だましだましで一日を過ごしてた.
 「自分に甘いだけなんじゃないの?」と問い正されればそれまでなんだけど,そういう叱咤でも自分の気持ちを変えられないからこそのスランプだったわけで.少し凹むくらいの状況なら,その叱咤で回復できるんですけどね.

スランプの原因: 自分はどうしたいのか?
 一つは燃え尽き症候群.昨年後半の怒涛のコラボ研究が楽しく,各地を観測で巡るのが楽しすぎた.デスクワークだけが残ってしまったことに辟易したのかもしれない.
 でもメインの原因は違う.心の問題.
 「研究者になりたい」.これが高校以来の自分の目標だった.研究者になるには博士の称号を得ることがまず必要なのだということを知った.この目標に向かって大学受けたし,大学院進学も迷いなく決めた.院生時代も苦しいこととか大変なことがそれなりにあったけど,それを苦と思わない自分がいた.目標がはっきりしてたから楽しかったのだ.苦しくてもやってやりゃいいじゃん,と.
 で,実際に大学を修了して研究者になった.目標が叶った.その喜びで半年は持った.半年たっても忙しさにかまけて,そういう思考を持つに至らなかった.
 で,年が明けて忙しさから解放された時に急に気付いた「研究者になったまでは良い.で,どんな研究者になりたいんだ?」 明確な答えを持っていない自分にがっかりした.今更ここで悩むのかよ.学生じゃあるまいし.そしたら急にポッカリしちゃって,仕事が手につかなくなってしまった.「なんのためにこれやってるんだろう」「これ,本当にやってて面白いのだろうか」「こんな論文書いても意味ないんじゃないのか」

半年前の自分が襲ってくる
 答えを持っていない自分にくよくよしていたころ,半年前の自分が襲ってきた.これに打ちのめされた.
 研究に限らないのかもしれないけど,研究職についていると成果が遅れて着いてくる.たった今頑張っていることが立った今評価されることなんてほとんどない.学会前に発表準備して,学会当日に発表が上手くいった,くらいの即物的なものもあるけど,発表できるだけの素地を整えた(観測・実験・測定・データ解析・議論など)のはもっと昔の話.昔の頑張りが後々評価される.
 論文などの書いたものの成果がわかりやすい.論文執筆→論文投稿→査読→査読結果に合わせて修正稿作成→再投稿→上手くいくと受理→掲載,と時間がかかる.一番頑張るのは初めの執筆.次が修正稿作成.受理まで行けばあとは掲載まで待つのみである.雑誌によりけりだが,受理されてから掲載されるまで半年以上かかることもざらである.
 スランプに陥ってた時,それまでの自分はけっこう頑張っていたので(自分で言うのも変だけど),その恩恵がかなり降ってきた.論文が掲載されたり,雑誌に寄稿した記事が掲載されたり,翻訳を手伝った本が発刊されたりした.もっと昔に書いた論文を見ず知らずのヨーロッパの研究者が引用してくれたりした.
 どれもこれも,とても嬉しい話で本来なら大いに喜びたいのだが,その時点でのスランプ自分の不甲斐なさが目立つように感じてしまい,余計に鬱気味に.半年前の自分の影に怯えてしまい萎縮してしまう.
 今頑張れていないことが怖い.半年前の自分みたいでいなければならないのか.怖い怖い.
 そんなことばかり気になるようになってしまい,喜べることすら喜べなくなっていた.

ひどい風邪にかかって考えた
 年度末から体調不良続きで仕事を休まねばならない事態に陥った(おかげで年度末の学会発表は,それはもうひどいものだったが).強制的に仕事から頭を切り離した.休みをいただいて一週間ほど実家で静養した.
 おかげで,自分を冷静に見つめなおせる良い機会ができた.自分がスランプだった原因とか,本当はどうしたいのかとか考えた.熱にうなされただけの考えもあったけど,布団の中で自分のことを考えた.
 まだ「どんな研究者になりたいのか」については明確に答えが出ていない.でも自分は人にものを教えるのが好きだということを再確認できた.だから「大学の先生になって学生指導しながら研究したい」という目標が1つできた.もともとこの目標を持っていたような気もするが,忘れていた.思い出せただけでも良い機会であった.

今思うこと
 この2ヶ月の期間に計画していた仕事があったけど,それは確実に先送りになった.そのことで自分が不利益をこうむることもあるだろうし,他の人に迷惑をかけてることもある.でも今まであまり立ち止まる事無くやってきていて,そのスピードを維持するのは無理があり過ぎると,とストップをかけてくれたのかもしれない.と好意的に・積極的にとらえることにした.もともと前向き人間なので.前向き思考が顔を出し始めただけでも自分にとっては良い収穫である.他人に欠けているだろう迷惑をこれから回収しに行きます.
 妙な自分語りをネットで公開してスイマセン.書くことで自分の心を整理する性質なので,書いてみました.だいぶスッキリしてきたし自分の中での葛藤も終わり,スランプ抜けだせそうです.
 また前向きなブログ記事を書いていこうと思います.     終わり.

クスリと笑いが生じるような文章展開をしたい

 自分の性格的な問題が災いしてか,ブログでも何でも真面目くさった文章を書くことが多い.面白く書くのが苦手で,真面目な文章を書くのが好きなんですよね.でも真面目っぽく書くほうが楽なので手を抜いているだけなのかもな.それだと文章から人が敬遠しがち.読んでても楽しくない.

内容が同じでもとっつきやすさが違う
 アメリカ人の先生・学生のグループと共同研究で調査しに行ったしたことがあったのだけど,そこでは調査中の会話がジョークであふれ,常に笑いが耐えない環境だった(自分が理解できた笑いは2割くらいだったけど).当然,調査自体は真面目に行う.でも同じ作業を堅く真面目くさって作業するくらいなら,楽しくやれたほうが良い.ジョーク・ウィットの力を感じた.
 文章と調査とでは大きく違うけど,同じ内容を読んでもらうなら少し面白さが入ってた方が良いな.

目指したいウィットの方向性

 この人のセンスが好き.日常生活の何気ない会話を別視点から捉えなおして,面白く落とす.大笑いするネタではないが,クスッとしてしまう.一つ参考例として紹介.


タイトル:せめてあの世では

閻魔 『 夫に刺し殺されるとは不運な奴…。 お前は天国行きだ。 』
妻 「 ありがとうございますっ! 」
閻魔 『 妻を殺して自分は自殺…。 屑が。 お前は勿論、地獄行きだ!! 』
夫 「 ありがとうございますっ!! 」

 ボケ・ツッコミで言うならボケの立場に立つのが苦手なので,ツッコミ側のこういう方向性を目指したい.いきなりは無理そうなので,少しずつ意識していきたいな.

このエントリのオチ
 タイトルで希望しておきながら,ちっとも笑いの生じる文章展開になっていない.

ブクマの楽しさを知った

はてなブックマーク
 考えてばかりだと疲れるので,少し砕けた文章を書こう.
 はてなブックマークは,オンライン上のブックマークとしてしか位置づけていなかった.だから気に入った記事が見つかっても「ブラウザのお気に入りに入れときゃいいや」とあまり活用していなかった.相当に心に残った記事にだけブクマをつけて,あとで簡単に見返せる程度でいいや,と思っていた.
 でもブクマの楽しさは,コメントを残すことにあったのだなあと.前々回の記事(考える力を身につけさせたい)が,多くの人の目に触れる機会を貰って,ありがたいことに20を超えるブクマをもらえた.もちろん,その数自体も嬉しいのだけど,そのブクマを通してもらえるコメントがなかなか魅力的だった.自分の吐いた意見に感じたことを書いてくれていて「なるほどなあ」と楽しくコメントを読ませてもらった.
 記事へのコメント・トラバだけでなく,ブクマでコメントを伝えることができるというのは,目からウロコ.ブクマが自分のためのメモだけでなく,記事の作者へのメッセージにもなりえるのか.

ブクマなどのコメントと一緒に作り上げる
ブログを書いてて思うのは、「自分で全てを完結しなくていい」ということです。もちろん、自分の意見としてはある程度の答えを持ってた方がいいんですが、言及し切れていない部分があっても気にしなくていいんじゃないかと。その後にコメントなり、トラバなり、ブクマなりついたときに、そこをフォローしてくれる人がいたりする。それに期待しちゃって、自分の中で60%ぐらいまとまったら、ぶん投げちゃえばいいんじゃないかなって。
 仕事柄のせいか,人からの反論の少ない論理的に完成された記事を書かねばらなんよな,とと思うことがしばしば.でも,そうやって出来上がった自信作ほどスルーされる傾向にあった.割と不完全で,いいっぱなし位の(いい加減な?)記事のほうが受けがよかったりする.後者のほうが突っ込みを入れやすい.変に自分の中で完成させるのではなく,色んな人の反応を見ながら,自分の中の意見をまとめあげていく方法が,Webではとれるのだ.
 このことを今回初めて実感できた.自分の意見に対して何かしらの反応が返ってきて,それらを基に新たな記事を書けた.元々はその2を作るつもりなんてなかった.でもコメントを受けて何か書きたい!という欲が刺激された.そしてその2を書いた.そしたらまた反応がもらえた.そして,また書きたい欲が高まっている.
 引用先で「コメントも含めて1つの集合知」と表現されていたが,まさにその通りだと感じた.
アウトプットすることの楽しさの副次展開
 書くことを通してアウトプットすること自体が好きで楽しい.アウトプットすることで自分の意見をはっきりさせることが出来るから.でも,それに他人の目が入り,コメントが入ると,自分の持った意見への客観性が増すから視野が広がる.それはもっと楽しい.それができると何倍も楽しくなりますな.
 興味を魅かれる記事に出会ったときは,ブクマを活用してメッセージを送ることを心がけてみる.

この記事で本当に言いたかったこと
 まなめたん最高.記事を紹介してくれてありがとう.あなたの紹介無しには,この楽しさに気づけませんでした.

考える力を身につけさせたい・その2

 前のエントリ 考える力を身につけさせたい へのたくさんの訪問,そしてブックマーク・トラックバック,ありがとうございます.もらったコメントの中で「ほうほう」と感じた部分がありました.それをピックアップしながら,「考える」ことについて「考えて」みます.
 エントリの触発元で,『自然な疑問』を持つように訓練するには というエントリも上がっています.解決策を既に持っていたんですね.

試行錯誤すら必要ない生活
 コメントの中で試行錯誤の大切さが述べられていた.
問題はもっと根本的で試行錯誤したことが無いのではないかと思う。そして試行錯誤に美を感じていない。だから思考するときの独特の不安や孤独に耐えられないのではないか。もしくはその孤独を感じるだけであきらめてしまうのではないだろうか。
2月7日のニュース / plotの日記
トライアンドエラーが美しくないことだと考えている人間が多い気がする。もしくはこれまでトライするときには結果を知っていたという場合が多い。考えるという本質を考えなければいけないから堂々巡る。

 コメントの通りだなと思うけれど,《考える力が身についていない》という問題とは少し違うのかな.「エラーが怖いからトライしなくなる → 考えなくなる」というプロセスも勿論あるだろうが,試行錯誤する必要すらない生活を送ってきた人もたくさんいるのではなかろうか.物や指示が次々と与えられ,その通りに進んでいくだけで良い.岐路に立たされないから迷った経験が少なく,困った状況に対処した経験が少ない.だからいざ困ると,どこかから指示が来るのを待つ.
 指示が与えられる生活がずっと続けば,自分から何かを考えることを放棄できる.考えることに費やす労力や時間が無駄になるわけだし,そもそも考える必要もなくなる.答えが用意されてるんだし.
 逆の立場から言えば,そういう生活を強いれば,立派な指示待ち人間を作り上げることが出来る.自分の手足として動いてもらう分にはこんなに都合の良い人間はいない.人一人では手足の数は限られるが,指示待ち人間を量産できれば,自分の脳みそ一つのままで手足が倍以上にできる.
 そういう状況でよいや,と思える人はそれでもよいけど,自分としてはなんかつまらない.

「褒める」を使いながら「考える」を覚えてもらう
 山本五十六の名言「やってみせ,言って聞かせて,させてみて,ほめてやらねば,人は動かじ」.自分が人を指導するときの拠り所の一つ(id:aiakiさんに同意).
 「課題を与えるから,なんか考えてきなさい」と言っても,これまで考えることをしてこなかった人には,そのやり方すら分からないわけだ.考える方法を知らないから考えられない.そういう場合には,考える道筋を教え,考えることの楽しさを伝え,自発的な思考を促していくしかない.時間がかかるけど,そうするしかない.
 その中で大切なことは「褒める」ことだ.何かしらの進歩が見えたらとにかく褒める.褒められて嬉しくない人はいないと信じている.

実践した例
 手前味噌で申し訳ないが,昨年に後輩の学生さんの投稿論文指導を行った話を紹介してみる.卒論でやった内容を投稿論文にした.
 作業は「後輩が執筆した原稿を持ってくる→添削して突っ返す」の繰り返し.何度も繰り返すことで文章が論文として洗練されていくのだが,「全然ダメ」と突っ返しても意味が無い.「ここの○○の部分は,こういう理由で良くない.記述が不十分だ」などと指摘し,最初のうちは「だからこう直すべきだ」と指示を出す.何度か繰り返して手順を覚えてきたら「こう直すべきだ」を減らしていく.自分で何かしら解決してみることを強いる.
 そしてそれをやってきたら,やってきたことに対して,まず褒める.それが自分の想定していたレベルに達していなくても褒める.少しでも考えてきて,何かをなしたことを嬉しい表情で褒める(本当に嬉しかったんだけど).
 そして何度も繰り返すことで考える道筋を覚えていってもらう.「指示を出す→指示通りにやってくる」だけだったのが,最後の方には「指示を出す→指示した事以上のこともやってくる」という状況も出てきた.これはものすごく楽しく嬉しかった.少しずつ成長しているときにきちんとした態度で褒めて嬉しさを伝えていけば,考える力は身についてくる.
 あー.ここまで書いて気づいたが,卒論すら仕上がらない学生さんに考える力を身につけてもらう方法になってないや.そちらについてはまた別に考えてみよう.

おまけ
小学校のとき先生が黒板に無茶苦茶なモノを書いた、絵でもなく字でもない。「これは何だ?」と問われたことがある。「適当に書いたんだ、答えなんてない。でも考えることが大切なんだ」と言われたのを思い出した。
 こういう先生良いな.こういうの目指したい.

関連記事のサルベージ

考える力を身につけさせたい

 気になる記事を見つけたので紹介.一文だけ紹介するけれど,リンク先サイトを一読してみてください.

常に「(生徒が知らない)正解を大人が知っている」という受け身の姿勢に徹している

考えなくても問題ない,という姿勢が磨かれる
 疑問を持たずに生きていけるなんて,世の中が優しさに満ちあふれているせいだ.自分からわざわざ求めなくても,待っているだけで何かしらの答えが与えられる.天から降ってくる.考えなくても答えが用意されているから,考える必要がなくなっている.
 受験指導の塾講師をしていたときに感じたのだが,生徒に考える力を伝授するような指導はあまりさせてもらえなかった.生徒の親は「成績が上がること」「受験をパスすること」を期待して塾に子供を通わせる.塾側としては「生徒の成績を上げる」「受験をパスさせる」ことが契約条件なので,簡単に点数が取れる方法・テクニック・裏技を伝授する.それを使えば簡単に点数が上がるから.
 でもテクニックばかりを教わる姿勢が身についてしまうから,いつまでたっても考える力が身につかない.「この方法を使えば答えが出るよ」とは教わるが,何故その方法を使うと楽に答えが出せるのか,にまでは考えが及ばない.教える側もそれは教えない.それを教え込むことは時間がかかるし,何よりも面倒くさい.そこに時間を費やしても,一時的に成績や点数が上昇することは望めないから.
 別に塾が全てではない.情報が簡単に得られる世の中になったから,苦労して答えを得る必要がなくなってきているのかも.分からない言葉があればネットで検索すれば出てくるし,レポート課題もWikipedia で難なくこなせる(つもりになる).考えなくても,数ある関門をパスできてしまう.

ではどうしたら良いのだろう
 リンク先の記事でも困っている.そういう学生を受け入れたときに,どういう風に卒論指導したら良いのだろう.自分でも色々と考案してみるけれど,妙案が思いつかない.むー.
 ゼミを通して,考えなければならないのだ・疑問を持たねばならぬのだ,という状況を強制させるしかないのかな.以前の記事で,質問するのが苦手な人について整理してみたことがある.
質問するのが苦手な人が抱える問題.発表を聞いても何も感じない → そもそも質問が出てこない.アンテナが低く,その発表に対する基本的な知識が不足しているために,聞くこと全てを事実のように感じてしまう.小中学校で授業を受けるような気持ちで聞いてしまう.そして発表を聞くときに,質問しようとする姿勢を持たない.
 質問や疑問が生じるには,物事に対してひっかかりを感じる必要がある.自分の思ったことと違うことが起きたときに「そうじゃなくね?」「そこちょっと違うよね?」と感じることが疑問への糸口になる.
 その糸口をつかむには,何かを予想しながら物事にチャレンジする姿勢を見につける必要がある.起こったことをありのままに受け入れる姿勢では,質問も疑問も生まれない.予想する部分が欠如してしまっているのだろう.だから,質問を強制することで,自分の実験や他人の発表への積極的な姿勢を見につけさせるとか.

こういう案はどうだろう
 実験する前に,「どういう結果になるか予想してみましょう」と導入し,実験させてみる.そして出てきた結果に対して,始めに出させた予想と比較させる.そこで何故違う結果になったのか,理由を考えてみてください,と促す.合っているかどうかは重要ではない(正解が無いんだし).自分の思うままで良いから,でっち上げでも何でも良いので,何かしらの理由をひねり出してください,と.何度か繰り返させることで,考えるプロセスを体で理解させてみる.
 しかし,ここまで面倒見なくちゃいけないのか.大変だな.これって中学校の理科の実験を彷彿させる.少しゲンナリ.あと予想通りの結果が出てきたら少し困るかも.

考え抜いて出した答えは最高に楽しいはずだ
 強制力ばかりじゃダメか.強制されてやる仕事なんて楽しくないし.用意された答えに向かって与えられた道をトレースするだけじゃつまらない.考えて出した結果はこんなにも楽しいんだよ,という姿を披露して,それを羨ましがらせてみる,とか.でも,それを見ても何も感じない人もいるだろう.「はいはい,あなたが好きにやってればいいじゃん」とか.こちらのアプローチでなんかいい案がないものか.

 むー.ここまで書いてみたが,良い案が出ない.そういう学生さんが企業に就職していくわけだが,企業の方はどんな風に指導しているのだろうか.考える力を身につけさせるような指導があるのかな.知りたいものである.

追記(2007-02-08
 コメントなどを受けて続き物を書きました.


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